次に1592〜1597年の豊臣軍の朝鮮侵攻、文禄慶長の役、韓国側ではこれを壬辰倭乱と表現している。このときいかに日本軍が残虐であったか、この被害でいかに朝鮮が疲弊したかということを言い立てているが、これよりもさらに後に遥かに甚大なダメージを朝鮮王朝に与えたのが、豊臣秀吉の時代からさらに40年以上後の1636年の清の侵略である。これを韓国では丙子胡乱といっている。


明の打倒を目指す清の太宗が明討伐の軍を朝鮮に要求したところ、朝鮮の仁祖がこれを拒んだために清が朝鮮に侵攻、仁祖は清の侵攻後わずか40日間籠城しただけであっさり降伏した。このときいかに屈辱的な扱いを受け、朝鮮王朝に甚大な被害と屈辱感をもたらしたかについては、ソウルの南、松坡区石村洞にある三田渡碑という石碑に刻まれている。


その碑にはわざわざモンゴル語満州語、漢文、の三つの文字で朝鮮が清を宗主国として明と同様に仕えること、毎年膨大な量の貢ぎ物を差し出すこと、朝鮮の王や太子、王妃の擁立は清の承認を得ること、清の年号を使用することなどを定めたことを刻んである。


さらに降伏の調印式では、朝鮮王が清の皇帝に対して三跪九叩頭をさせられた。三跪九叩頭というのは三回跪いて、その都度三回づつ頭を地面に叩き付けるというまさに字のごとくの、屈辱的な降伏の儀式である。さらにこのとき清の太宗は朝鮮王の頭を叩き付ける音が聞こえないと何度もやり直させたために朝鮮王の額は血だらけになった。頭を地面に叩き付ける音がよく響くほど臣従の忠誠の度合いが高いということになっているからである。この朝鮮最大の国辱の行われた場所が三田渡碑のある場所である。


中国の歴代王朝は征服した朝鮮の王朝に徹底的に屈辱感を与えるのが伝統のようで、唐が朝鮮の百済を滅ぼしたときも百済の仏塔に、わざわざ『大唐平百済国碑銘』(大唐国が百済を平定した記念の碑銘)と刻み付けたものが、百済塔という名で今でも韓国に残っている。