韓国人は定型表現が好きだ。というより単にボキャブラリーが少ないだけなのかもしれない。マスコミも掲示板で出会う普通の韓国人も皆同じような表現を使う。というか物の見方が単一的だと言える。メディアも国民も同じような物の見方しかしない。つまり韓国というのは一種の観念国家だと思う。


現実をみてそれを表現しようとすれば人それぞれ多様な表現が有るはずだ。しかし観念というのは現実ではない。現実ではないから多様な表現というのができない。観念というのは言葉の積み木で作った実体のないイメージである。だから皆同じ言葉で表現するしかないのだ。同じ言葉を同じ順序で組み立てていくことで最後同じ観念が得られるのである。表現を変えれば、最終的に組み上がる観念が別の物になってしまうので、その観念が成立しなくなってしまう。だからみんな同じ言葉を同じ手順で繰り返して同じ観念をトレースする。そういう融通の利かない、硬直した脆い思考で支えられているのが韓国という国であり韓国人の意識だと思う。


例えば一例を挙げると「文化は水のような物で、高いところから低いところへと一方的に流れる。その逆はない。」韓国人と話したことのある人はこういう言い回しを一度ならず聞いたことが有るはずだ。この一種の定型表現には続きが有る、「だから日本は朝鮮から一方的に文化を受け取ったのだ。文化は朝鮮から日本に伝わり日本から朝鮮に伝わった物などない」だいたいこういうことを言うために使われる表現だ。


確かに一瞬聞いただけではなるほどそうかと思う。確かに常識で考えれば水は上から下にしか流れないしその逆はない。しかしこれは一見正しいことと全然関係のない物を結びつけることによって、その関係のない物まで正しいと思わせる一種の修辞と言うか詭弁である。韓国人はこういう詭弁が実にうまい。韓国にはこういう詭弁ばかりを学ぶ論学という学問のジャンルが有るという話も聞いたことが有る。まあ李朝の時代の500年というのは延々こういう詭弁を論じていたのだから当然と言えば当然というか、韓国の文化でもあるのだろうと言う気がする。


李朝では私闘は固く禁じられてきた。日本のように国内で領主同士が争っていたら、それを口実に中国の王朝が朝鮮に攻め込んで朝鮮が滅ぼされる危険が有ったからだ。だから朝鮮は領主を作り出さないために国王がすべての国内の権限を握る強力な中央集権国家だったし、両班と呼ばれる官僚貴族の権力闘争は武力で争うのではなく、儒教的にどちらが正しいかより正統かを争う観念論争に終始した。


儒教というのは孔子孟子という古代の思想家の作った論理。つまり観念であるから、観念を正しいと証明することは不可能で、要するにどちらが相手を言い負かしてより多くの支持を得るかが正統性の証明ということになる。結局韓国人の議論というのは、日本人の議論とは全く別の物になる。


日本人の議論というのは共通の認識や双方が納得できる妥協点を見つけることが目的である。そしてこの共通の認識や妥協点から、協力して何をすべきかという結論に向かって収束していく。つまり議論は共同の行動目的に到達するための手段なのである。現実の共同作業をするための下準備とも言える。つまり最初から協力し合うということが前提になっているのだ。日本人の議論は演澤的、と言えるかもしれない。


一方韓国人にとっての議論はどちらが正統性を手に入れて勝利を手中にするのかというまさに戦いである。だから絶対にお互い妥協しない。何しろ最初から結論が決まっている。そういう意味においては帰納的と言えるかもしれない。議論は協力強調の手段ではない。韓国人にとって議論というのは相手を倒す闘争手段なのだ。


実際李朝の時代はこの観念論争が命がけだった。何しろ観念論争に負けた方はよくて追放流罪、悪ければ三族もろとも誅滅させられてしまうのだから。こういう伝統が有る以上、現代の韓国人にとっても議論はまさに相手を打ち倒し自分が勝利するための闘争である。


こういう韓国人の議論のスタイルを知らないうちは日本人は韓国人と議論して面食らう、何しろこちらの言うことを全く聞かないし、議論の中身とは何の関係もないものすごい罵倒の言葉を受けるから。協力し合いましょうというつもりで日本人が韓国人に話しかけているのに、韓国人の方は相手を倒して自分の主張を認めせるために議論しているのだから。


おまけに日本人はなるだけ客観的な事実や資料に基づいて結論を出そうとしているのに、韓国人は観念を主張してくるから、全然議論が噛み合ない。


そういう中で出てくるのが上に上げたような観念を正統化するための定型表現である。


もう一度話を元に戻すと「文化は水のような物で、高いところから低いところへと一方的に流れる。その逆はない。」の部分は、頭で考えると正しいように思えるが、現実と照合してみるとおかしいときがつくだろう。例えば日本は中国から漢字や儒教や仏教などたくさんの文物を輸入したが、その一方で日本からも中国に扇子や日本刀あるいは蒔絵漆器や屏風などたくさんの文物を輸出しているのである。これらの中国における評価は極めて高かった。



あるいは西洋文明と日本文明の遭遇でも、西洋の鉄砲科学を輸入したが同時に、やはり日本の漆器や陶磁器あるいは刀剣類やからくり人形、後の時代には浮世絵などが日本から輸出されている。つまり文化は一方通行でなく双方向なのだ。


この日本文明における現実をみれば「だから日本は朝鮮から一方的に文化を受け取ったのだ。文化は朝鮮から日本に伝わり日本から朝鮮に伝わった物などない」という韓国人の主張もやはりおかしいとわかるだろう。実際日本から朝鮮には古代には勾玉や高野槙、それ以降にも扇子や日本刀が伝わって朝鮮でも扇子や日本刀に似せた倭刀と言われる剣が作られた。その他煙草や薩摩芋唐辛子なども日本から朝鮮に伝わっている。ガラスレンズやお茶なども輸出されていた。


もっとも韓国人のこの主張というか観念は実は、中国と朝鮮における文化の関係を、そのまま朝鮮と日本に当てはめた物にすぎない。韓国人には中国>朝鮮>日本という確固たる信念としての序列が出来上がっている。中国と朝鮮の関係が一方的に中国から韓国が受け取るだけの一方通行の関係だったから、朝鮮と日本との関係もそうであったはずである。と言うよりそうでなくてはならない。なぜならそうでなくては日本と朝鮮の序列が成り立たないからだ。ということである。


この序列そのものが韓国人の勝手な観念なのだからどうしようもない。日本人としては日本は中華の序列には入っていないのだから、勝手なことを言われても困るというところだが、韓国人にはそれが理解できないらしい。何が何でも日本は韓国の下の末席でなくてはならない。そうでなくては中国に頭を抑えられた韓国人の自尊心が維持できないからということだろう。


日本人が考えるように「日本は中国と対等。」などということになれば中国の下についた韓国にはその下がなくなってしまうし、ましてや韓国より上の中国と日本とが対等などというのは到底受け入れられない認識らしい。