古代日本は朝鮮半島南部を支配していた1


韓国人は自分の都合の悪いことは徹底的に無視します。だから朝鮮半島南部を日本が支配していたということは絶対に認めません。もちろん日本国内にも韓国朝鮮の歴史観に呼応して任那日本府の存在を否定する論調が有ります。しかし現実にはそれを示唆するような様々な文物があります。


以下の記述は朝鮮の歴史書三国史記新羅本紀から日本関係の記事の抜粋です。


三国史記 (さんごくしき、 三國史記、現代韓国語読:Samguk Sagi, ????) とは、1145年に高麗朝仁宗(在位1123-1147)の命により金富軾が完成させた高句麗本紀・百済本紀・新羅本紀・年表・雑志・列伝の六部より成る三国の紀伝体正史で、朝鮮半島に残存する最古の歴史書で、全50巻。


73年 日本軍(倭兵)が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。

121年 夏四月に日本軍(倭兵)が東の辺境を侵した。

123年 春三年に日本国と講和した。

173年 日本の女王卑弥呼が使者をつかわして礼物をもって交際を求めてきた。(「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘」)。

232年 夏四月に日本軍(倭兵)が新羅の首都金城を攻める。

233年 五月 日本軍(倭兵)が東辺を侵した。

249年 四月 日本軍(倭兵)が金城を取り囲み舒弗邯、于老を殺した。

295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。

これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。

王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。

346年 日本軍(倭兵)が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。

364年 日本軍(倭兵)は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。

393年 日本軍(倭兵)が来て新羅の首都金城を包囲した。

402年 三月 日本に、奈勿王の子、未斯欣を人質として送った。

405年 日本軍(倭兵)が明活城を攻める。

407年 春三月 日本軍(倭兵)が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。

418年 王弟の未斯欣が日本から逃げ帰った。

431年 日本軍(倭兵)が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。

440年 日本軍(倭兵)が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。

444年 四月に、日本軍(倭兵)が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。

459年 四月に、日本軍(倭兵)が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃した。

462年 夏五月に、日本軍(倭兵)が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。

463年 日本軍(倭兵)が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。

476年 日本軍(倭兵)が東辺を侵す。

477年 日本軍(倭兵)が兵をあげて五道に侵入した。

482年 五月に日本軍(倭兵)が辺境を侵した。

486年 夏四月に日本軍(倭兵)が辺境を侵した。

500年 春三月 日本軍(倭兵)が長峯鎮を攻め陥した。