韓国茶道は無い2


現代の朝鮮茶道には抹茶を使った物もある。それは日本の裏千家が朝鮮の茶道関係者を指導しているからである。朝鮮の抹茶を使った茶道の作法を見ると茶筅の形が日本の裏千家茶筅そのままであることが判る。茶筅は流派によって形が違う。一般的によく目にするつぼみ型に丸まった物は裏千家であり、表千家茶筅は穂先までまっすぐにのびて穂先の先端だけがくるんと内側に強く丸まっている物である。


だから朝鮮の抹茶を使った茶道が日本の裏千家の影響を受けていることが判る。それでも韓国人は元々朝鮮には茶道が有ってそれが高麗時代に日本に伝わったのであり、朝鮮茶道は李朝時代に衰退したが、再び復活させたのだと言い張っている。


確かに茶を粉末にして飲む方法は中国の最古のお茶の書物である唐の陸羽の「茶経」にも書かれている。しかしこの当時の茶を粉末にして飲む方法は、半固茶という発酵茶を固めてブロックにしたような物をナイフで削って粉末にして、これをササラでかき混ぜて飲む物で、これは元々茶が漢方薬として扱われていたため、漢方の薬を粉末に砕いて飲む方法からきている。よって現在の日本の抹茶とは全く違った物である。



ササラとは竹を細く割って束ねた箒のような物で、漢方薬を混ぜる為に今の泡立て器の代わりに使われた物である。日本には縄文時代の遺跡からこのササラが出てくる。このササラを日本の茶道の創始者たちが茶道具として洗練させて茶筅ができたのである。茶筅が現在の形になったのは15世紀の田村珠光の時代であり、千利休は田村受光にはばかって茶筅の形をつぼみ型に変えたのである。


実は驚くことにこの中国唐の時代の古いスタイルの抹茶も現在の日本に残っている。沖縄のぶくぶく茶や富山や新潟のばたばた茶と言われる物である。ぶくぶくと言うのは泡の様子を、ばたばたというのはお茶を混ぜる様子を表している。お茶は発酵茶を使うので水色は黒く、茶筅は茶道の茶筅のように開いていないササラに近い形の素朴な物を使う。


だからもし仮に高麗の時代に朝鮮に抹茶が有ったとしてもぶくぶく茶屋ばたばた茶のような発酵茶であり、現代の茶道の抹茶のような緑鮮やかな物ではなかったはずで、また茶筅も現在の形ではなかったはずである。


現在の茶道に使われる緑色の抹茶が作られたのは日本が最初で、茶の葉を蒸すことで酵素の働きを抑え、発酵させないことで緑の色を残すことができるようになったのである。だから中国や朝鮮では緑色のお茶は無かったのである。中国や朝鮮では緑茶といっても蒸さずにすぐに煎るために、日本の緑茶のような緑色の水色にはならず、黄色になってしまう。むしろ中国では黄金の色だということでその方がよいお茶だと言われるくらいである。


このように、ササラを改良して茶筅を作ったのは日本であり、また緑色の抹茶を作ったのも日本である。よって朝鮮にはたとえ高麗にも現代の茶道で使われる緑色の抹茶は無かったのであり、まぎれも無く茶道は日本独自の文化だと言えるのである。