韓国人というのは他者依存症だ。映画「パッチギ」で主人公の日本人に対してその恋人の朝鮮人の両親が、「国会議事堂の石はどこからとってきた、誰がそれを作ったと思う。お前たちに朝鮮人の何が判る何を知っている。」と問いつめるシーンが有ったが、何を言っているんだこいつは?おいおいそれは違うだろうと思った。


朝鮮人が日本社会に貢献したのなら自分たちがそれを誇ればいいだろう。声に出して「私たちはこれだけ日本社会に貢献しました。だからその対価としてこれだけの権利を要求します。」と。それをせずにただ日本人が理解してくれないからと、そのことで一方的に一個人の日本人を問いつめるのは筋が違う。


戦争中日系アメリカ人は、日本のスパイと疑われ、アメリカ政府が不当な扱いをしたことに対して、それを嘆くより自らアメリカ市民であることを証明しようと、志願して日系人部隊を作り、日本と勇敢に戦って、自分たちのアメリカに対する忠誠心を証明した。これとはえらい違いだ。


これは第442連隊戦闘団と言われる人たちだ
http://ja.wikipedia.org/wiki/第442連隊戦闘団


もっとも、自分が不幸だと嘆きそれを理解してくれないと周囲を責めるのはこれは韓国人の民族性だ。在日韓国人だけに限ったことではない。韓国には「身世打玲(シンセダリョン)」という言葉が有る。これは自分の身の上の不幸を延々と嘆き悲しむことだ。一つの形式化して韓国の伝統文化にまでなっている。だから韓国に行けば韓国人同士で同じことをしている。みんなが自分には責任がない悪いのはすべて周囲だと言い張っている。


こういう現在まで引き継ぐ韓国人の他者依存体質の民族性は、結局自力で何もできないからせめて我が身の不幸を他人に訴えることしかできなかったという李朝時代の社会の矛盾が作り出した物だろう。哀れとは思うがそれは日本人に責任は無い。


在日韓国人は何かと日本や日本人を責め立てる。調子に乗ってそれに同調する団塊左翼の日本人や、団塊左翼の両親に洗脳された団塊左翼ジュニアまでいる。日本人は周囲のせいにする前に自分に問題がないか何かできることはないかまず考える。だから日本人はこういうタイプの何でも他人のせいにする人間になれていないから面食らう。だが日本人は在日韓国人のこういう態度にはあまり深刻にならなくてもいいと思う。自分で何もせずに他人を責める、他者依存は彼らの民族性なのだから。


それにしても本国の韓国人とは違って、在日韓国人の二世以降は日本社会で生まれ育って日本社会の恩恵を受けて生活している。それなのに日本社会に受け入れられるための自助努力をせずに、自分たちの態度を一寸たりとも変えず、日本人に自分たちの存在だけを100パーセント受け入れることを要求し、なおかつ、日本社会や日本人のいいところを取り入れて自己変革することができないなら、所詮何代代を重ねてもエイリアン、異邦人でしかないだろう。日本社会の一員とは言えない。